書籍「犯罪心理学者が教える 子どもを呪う言葉・救う言葉」を読んで知る、“子どもの私”と“親になった私”

「みんなと仲良くしなさい」

「早くしなさい」

「何度言ったら分かるの」

「気を付けて!」

誰もが言われたことのある言葉も、度が行き過ぎるとそれは子どもにとって重荷となり、足枷となる。

今回読んだ「犯罪心理学者が教える 子どもを呪う言葉・救う言葉」は犯罪心理学者として全国の少年鑑別所、刑務所、拘置所で犯罪者を心理学的に分析する資質鑑別に従事された出口 保行(でぐち やすゆき)さんが書かれた本だ。

 

この本を私が手に取ったのは、例外になく“心当たりがあった”からである。それはもちろん“母親として”でもあり、同時に“子どもとして”でもあった。

今は親である私も、遡れば(当たり前だが)子どもであり、親に育てられていた時間がある。その時間についても、改めて振り返ってみたかった。

 

子どもの私

本の内容に入る前に、私の消し去りたい過去の黒歴史を一つ話したいと思う。

以前に投稿した通り、私は愛着障害と言われる後天性の生きづらさがあった。

それを言い訳にしていいとは全く思っていないが、私は忘れもしない、一つの罪を犯した。

 

小学校低学年の時、同じマンションでよくお家に遊びに行く友達がいた。その子の家には多くの「その子のために買ってあげたおもちゃ」がキラキラと輝いていて、それを「誇らしげに見せる友達」の姿が、私にはとても耐えがたかった。それは私が欲しくても手に入らない、「親から愛されている証拠」のようで、羨ましかったからだ。

そうして私は、それがをするのが当たり前かのように、その友達のおもちゃをポケットに入れた。それも周りが分かるくらいパンパンに。

その愛を分けてほしかったのか、その子が困る姿を見てみたかったのか、詳細な感情は覚えていない。ただ、そのおもちゃが欲しかったわけではないことは覚えている。

 

「良し悪しも判断できない子どもの出来心でしょ。」と思う方もいるかもしれないが、あの時の私はしっかりと分かっていた。自分が人のもの盗んでいて、それがいけないことだということも。

とは言え、そんなにパンパンのポケットではすぐに見つかり、その子の親からは叱られ距離を置かれた。(当たり前だ)

ただ、友達のお母さんは、私の親には何も言わなかった。向こうの親からすると、私のためを思ったのかもしれない。けれど、あの時の私は、親から怒られることすらも望んでいた気がする。

 

だいぶ話が逸れたが、本書籍のなかでも、会社のお金を横領した女性の話が紹介されていた。幼少期から父親から浴びせられる「早くしなさい」という急かす言葉と思い通りに動かなかったときの暴力。彼女は自ら先を見通すことよりも、その場から逃れることを優先して生きてきたため、「事前予見能力」が乏しかったという。

非行少年の面接を行っていると、「そんなことしたら、すぐに捕まることくらいわかるだろうに」と思うようなケースがたくさんあります。彼らに共通しているのは「事前予見能力の乏しさ」です。

つまり。「そのときだけ楽しければいい」「そのときだけ苦痛から逃れられればいい」といった短絡的な思考に支配されているのです。

事前予見能力とは、非行・犯罪臨床の中でよく用いられる言葉で、いわゆる「先を読む力」のことです。

(出口保行「犯罪心理学者が教える子どもを呪う言葉・救う言葉」第2章より引用)

 

私の場合も同様に、先を読む力が圧倒的に乏しかった。決して「良し悪しの分別」がついていないわけではない。これをしたらどうなるかを考える前に、その場の感情に飲み込まれ、手が出てしまったのだ。

 

他にも麻薬に手を出してしまった方や援助交際をした方の例が出てくる。

どれも読んでいて思うのは、「紙一重だ」ということ。

特に援助交際なんかは、私の子ども時代にSNSがなかっただけで、もし知らない人から自分の存在を認め、必要としてもらえるなら会いに行ったかもしれない。(当時はハンゲームや前略などはやっていたが、どれもリアルな人間関係をもとにしたものだった)

自己肯定感とは、ありのままの自分を肯定できる感覚のことです。他者との比較ではなく、自分の存在に価値があると認め尊重できる感覚です。良い人生を歩むための根源的な力と言えます。

(出口保行「犯罪心理学者が教える子どもを呪う言葉・救う言葉」第4章より引用)

実際、私の自己肯定感は親からではなく、高校生の時に初めてできた彼氏によって形成された(と思う)。合わところがあるならそこで人間関係は終わりだと考えていた私に、彼は「喧嘩や意見が合わないことがあったからって、それが別れる理由にはならない。お互いに好きなんだから、話し合って真ん中を探せばいいだけ。」と冷静に言われ、衝撃を受けた。

彼にとって“めんどくさい(であろう)私”を愛という感情で全面的に受け入れられたのは、あの時が初めてだった。

 

この本にも救われた言葉がある。

「動機は持っていても、実際にやらなければいい」

全く意味の分からない人もいるだろうし、自分の過去に目を瞑りたくなった人もいると思う。

かくいう私も、毎日涙で枕が濡らすくらい辛い時や、どうしようもなく人が他人が憎い時、台所に行って包丁を握りしめたことが何度もある。

何かを心に決めたわけではなく、その感情を吸い取ってもらえるような気がしたからだ。何を言っているか分からない人が大半だろうが、あの時の私は本気で、思いとどまることに必死だった。実家を出たその日を境にそういった感情が起きることはなくなったが、あの時行動に移さなかったことは私の生涯で一番褒めてあげたいと思っている。(とはいえ、この話を身近な人にするのはかなり勇気がいる。言えないで終わる可能性のほうが大きい。笑)

 

親になった私

と、ここまで子どもの頃の自分と重ねてきたが、親としてもしっかりこの本の一つ一つを受け止めなければならない。

それぞれの章で共通して大事になるのは、子どもの主観的事実。つまり親が誰のために言ったのかや、どういう期待(や心配や愛情)を込めて言ったのかではなく、本人がどう捉えたか。私たちは誰しもが一度は子ども時代を過ごしているのに、こう言われたら子どもとしてどう思うか、どう影響を与えるかという知識がほとんどない。この本はそれを補ってくれる、重要な参考書だと思う。

(子どもの安全基地となる愛情は前提として)親として子供を信じ、「転ばぬ先の杖」になるのではなく、転んでも立ち上がる時に肩を貸し、また一人で歩けるように背中を押せるようになること。それが親として必要なスキルなのだろう。

子どもに対する叱り方、褒め方、励まし方、寄り添い方…。具体的にどうすればいいのか、はもう目の前の子どもを見るしかない。向き合い、家族で話し合いながら考え出していくしかないのだと思う。

話し合いに慣れていない我が家も、まずは夫にもこの本を読んでもらうところからスタートする予定だ。

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